2017年秋より マイペースで更新している自伝的回顧録
『花との歩み FLORET Rが出来るまで』

「どうしてお花を始めたんですか?」
「どうやってお花を教えることになったのですか?」
そう聞かれることが多くなりました。

花人生27年(お花を習ってから)を振り返りつつ、
軽い気持ちで綴り始めたものです。

良かったらご一読下さい^^
つたない文章ではありますが、
お楽しみいただけましたら幸いです。

↓最初から読みたいという方は下のリンクよりどうぞ^^

↓ひとつ前の『花との歩み28』は下記よりどうぞ^^

花との歩み28 ブライダルブーケのクオリティを上げるために

 

花との歩み29 出遅れてしまった理由と意味

どんなことも最高のタイミングで起こるものですね。

正しいことは正しい時に起こる。
正しい時に正しい場所に居られる。

それが、私の持論です。

今回、花との歩み28を書いて、
改めて記憶をたどってみて思い出したことがあります。

そもそも、4人で押花を習おうとしていた時に、
何故、私だけが出遅れてしまったのか?

当時、夫の父も私の父も体調を崩して入院していたのです。
しかも、2人とも病状は軽いとは言えず、
もしかしたらこの先、
命を落としてしまうことがあるかもしれないと思うほどでした。

だからこそ、両家の親に孫の顔を見せてあげられなければ
一生後悔するかもしれない…と考えていました。
それで、そろそろ子供を…と思っていたのです。

それが、短期集中講座へ進ませるきっかけにもなりました。

更に、札幌の父の入院先に週一、二回のペースで通っていたこともあり、
押花の講座の後に行くことが出来れば一石二鳥だと考えたのです。

当時は、病状を本人には伝えない時代で、
「押花の帰りに寄ったよ!」と言えるのは、調度良い口実にもなりました。

病棟のエレベーターまで送ってくれる父に笑顔で手を振って
エレベーターが閉まった途端に涙がこみ上げてきたり
帰りのバスの中で父の病状と今後を思い、涙することもありました。
(お陰様で、父は今も健在です。)

勿論、小樽の義父の病院にも週一、二回の同じペースで
北一硝子の生け込みの後に通っていました。
なかなか良い嫁してたじゃないの私(笑)。

かくして、両家の父達の入院、手術のタイミングが重なり
私だけが出遅れてしまった訳です。

そのお陰で、私はF押花のインストラクター養成講座を受講することが出来たのです。

つづく。

花との歩み30  森理恵押花を学ぶ